鈴木淳さんの偲ぶ会に弟子の田川寿美ほか関係者が参列。八代亜紀が「なみだ恋」を歌い、「たくさんのヒット曲を歌い続けます」
昨年12月9日に虚血性心不全のため亡くなった作曲家・鈴木淳さん(享年87)のお別れ会「鈴木淳先生を偲ぶ会」が6月17日、東京プリンスホテル・鳳凰の間で行われた。
鈴木さんは1934年2月7日、山口県防府市で生まれた。早稲田大学在学中に早稲田大学グリークラブに在籍し、音楽とより向き合うようになる。大学卒業後には音楽之友社での雑誌編集者などを経て、1963年に西田佐知子の「恋なんてしたくない」で作曲家デビュー。1973年には八代亜紀の「なみだ恋」が大ヒットした。1998年には「第40回日本レコード大賞」吉田正賞を受賞し、2005年には春の叙勲で旭日小綬章を受章した。また、日本作曲家協会理事長、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事などを歴任。歌手の育成にも努め、八代亜紀、田川寿美などを世に送り出した。
代表曲は伊藤ゆかり「小指の想い出」(’67年)、黒木憲「霧にむせぶ夜」(’68 年)、小川知子「初恋のひと」(’69 年)、ちあきなおみ「雨に濡れた慕情」(’69 年)、八代亜紀「なみだ恋」(’73年)、田川寿美「女・・・ひとり旅」(’92年)など多数。
「偲ぶ会」は2005年に旭日小綬章の受賞した際に、「感謝の集い」を行った東京プリンスホテルで開催され、歌手、作家、音楽関係者など約350名が参列した。
祭壇に広げたノートから鈴木さんの音楽があふれるイメージでつくられ、バラ、ダリア、ユリ、トルコキキョウ、カスミ草、菊など約3000本の花が飾られた。幅は12メートル、高さは4メートルとなり、先の「感謝の集い」で撮影された写真が祭壇の中央に置かれ、右にはレコーディング時の写真、左には夫人であり、作詞家・悠木圭子先生とのハワイでの一枚が飾られていた。
式典ではフリーアナウンサーの徳光和夫氏が開会の辞を述べ、日本作曲家協会会長・日本音楽著作権協会会長の弦哲也氏、作詞家で稲門歌謡会(早稲田大学のOB会)代表のいではく氏があいさつした。
弦氏は、「公私ともにたくさんのことを教えられた恩人のひとりです。ロマンチストでちょっぴりシャイで、その一方で頑固一徹な人。昭和・平成・令和と時代が流れても、流れに流されることなく歩んでこられた人でした。これからも鈴木メロディーは色褪せることはないと思っています」と語り、「まだまだ歌づくりの教えを請いたかったですが、天国から日本の音楽界・歌謡界を見守ってほしいと思っています」と話した。
また式典では、八代亜紀が「なみだ恋」を歌い、「鈴木先生と奥さまの悠木圭子先生は、私の音楽の親です。『全日本歌謡選手権』に出てからもう51年。50年前、先生方と私の家族で行ったハワイ旅行のことは今でも鮮明に覚えています。先生、これからも天国から見守ってください。先生からいただたたくさんのヒット曲をこれからも大切に歌います」と恩師に感謝した。
その後は鈴木さんの弟子の田川寿美、黒木じゅん、入山アキ子、椎名左千子、松原健之、リンダ・コラソン、アドが登壇し、田川は「13歳の時に悠木先生に歌手にならないかと声をかけていただきました。デビュー当時、鈴木先生と悠木先生は、大きな声であいさつができない内気な私に『無理しなくていいよ。あなたらしくしていればいい』とおっしゃってくださいました。その言葉が救いになったことを今でも覚えています。先生方からは本当にたくさんの愛情をいただきました」と恩師との日々を振り返った。
さらに、かつて鈴木さんのレッスンを受けたことのある俳優・水谷豊も弔問に訪れ、「ちょうど50年前の今頃、役者を続けるなら音楽もした方がいいと、鈴木淳先生をご紹介いただきました。初めてお会いした時に、奥さまが女優の藤田佳子(悠木氏の女優時代の名前)さんだと知って驚きました。藤田佳子さんといえば数々の映画に出ていらっしゃった雲の上の存在。その後、お二人にはボウリングに連れていっていただくなど、とても優しくしていただきました」と、ボウリング場でのエピソードや、鈴木さんのレッスン場にいた八代亜紀と一緒に小田急線で新宿まで帰った話などを懐かしく話していた。
最後は喪主で作詞家の悠木圭子氏が「ずっと夢に出てくれなかった鈴木が、この10日ぐらい前から毎日夢に出てくれるようになりました。夢の中では、みんなでゴルフをしたり、別荘でバーベキューをしたり。きっと今日の日を待ち望んでいたんだと思います。皆さま、どうぞ鈴木淳のことを忘れず、これからも時々思い出してあげてください」と参列者へお礼の言葉を述べた。