多くのミュージシャンに影響を与えた弘田三枝子

7月21日に心不全のため永眠した弘田三枝子は、多数の大ヒット曲を世に残しただけではなく、多くのミュージシャンに影響を与えた。(上の写真は1965年、18歳の時の弘田)

弘田は、小学生の頃から米軍キャンプで歌いはじめ、1961年、14歳の時に「子供ぢゃないの」でデビュー。その後、「ヴァケーション」「すてきな16才」「砂に消えた涙」などのカバー曲のヒットを連発、“パンチのミコちゃん”と称された。週に10本以上のテレビのレギュラー番組を持つ、国民的な人気者になり、1965年には日本人歌手初の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」出演で“ポップスクィーン”の名をほしいままにした。

1969年にイメージチェンジをはかってリリースした「人形の家」が大ヒット。ダイエットブームの先駆けとなった『ミコのカロリーブック』が150万部を超すベストセラーを記録した。

そのパフォーマンスは多くのミュージシャンに影響を与え、桑田佳祐氏は、1983年にサザンオールスターズのアルバム「綺麗」に、弘田をテーマにした「MICO」という作品を収録。アンサーソングとして同年に「オー!ケイスケ」をもじった「O-KAY」をリリースした。

今年はレコードデビュー60周年を迎え、記念曲の制作や記念コンサートの開催などが企画されていたという。新型コロナウィルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたが、実現することはなかった。

ラストシングルは55周年記念曲として2015年に発売された「悲しい恋をしてきたの/ひいふうみいよう」。ラストアルバムは2019年発売の「ゴールデン☆ベスト」(ともに日本コロムビア)となった。

亡くなる約ひと月前の6月15日にYouTube「日本歌手協会チャンネル」で配信された「コロナに負けるな リレー歌謡祭第46弾」で、「早く皆さんに会いたいです」と電話でコメントを寄せていたが、これが公での最後の肉声となった。

つのだ☆ひろ「メリー・ジェーン」、弘田三枝子「人形の家」、第46弾
YouTube公式「一般社団法人日本歌手協会リレー歌謡祭

つのだ☆ひろからバトンを受けた弘田は次のようにコメントしていた。生前最後の肉声となった。「弘田三枝子です。皆さん、お元気ですか? 今、わたくしはコロナの影響がありまして、ずっーと家の中で、何年ぶりでしょう? 閉じこもっております。早くコロナが落ち着いて、もう、皆様に会いたいです。それでは、歌手協会で歌った歌を聴いてくださいね。お願いいたします」


ラストシングルとなった
弘田三枝子「悲しい恋をしてきたの」
2015年10月21日発売

「悲しい恋をしてきたの」
作詞/森雪之丞 作曲/合田道人 編曲/北島直樹
c/w「ひいふうみいよう」
作詞・作曲/合田道人 編曲/鳴海周平
<ボーナス・トラック>
人形の家(ピアノ・バージョン)
作詞/なかにし礼 作曲/川口真 編曲/北島直樹
日本コロムビア COCA-17059  ¥1,204+税

▼「悲しい恋をしてきたの」MV

▼「ひいふうみいよう」MV

 

2019年2月20日発売
アルバム「弘田三枝子 ゴールデン☆ベスト」

日本もロムビア COCP-40706 ¥2,200+税
【収録曲】
1.ヴァケーション*/2.子供ぢゃないの*/3.悲しき片思い*/4.想い出の冬休み*/5.私のベイビー*/6.砂に消えた涙/7.ナポリは恋人/8.夢みるシャンソン人形/9.踊り明かそう/10.恋のクンビア  /11.道/12.レオのうた/13.世界の国からこんにちは/14.渚のうわさ/15.涙のドライヴ/16.可愛い嘘/17.人形の家/18.私が死んだら/19.燃える手/20.ロダンの肖像/21.バラの革命/22.蝶(ちょう)の雨/23.『ドーベルマン刑事(デカ)』のテーマ
*はモノラル録音


Profile
弘田三枝子(ひろた・みえこ)
1947年2月5日、東京都生まれ。本名は竹永三枝子。

小学生の頃から米軍キャンプで歌い、1961年11月、東芝レコードから「子供ぢゃないの/悲しき片想い」でレコードデビュー。その後、「ヴァケーション」「想い出の冬休み」「悲しきハート」「ビーマイ・ベイビー」などカバーポップスのヒット曲を連発、そのダイナミックな歌唱と健康優良児イメージから“パンチのミコちゃん”とよばれて人気が爆発した。

1962年 『第13回NHK紅白歌合戦』に「ヴァケーション」で初出場、以後22回まで出場する。週に10本以上のテレビのレギュラー番組を持つほどの国民的な人気者に成長した。

1964年12月、日本コロムビアへ移籍。第一弾「砂に消えた涙」が大ヒット。
「ナポリは恋人」「夢みるシャンソン人形」などカバー路線で大ヒットを飛ばし、“ポップスクィーン”と称される。

1965年7月 日本人歌手として初、18歳で「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出演。12月、アニメ『ジャングル大帝』のテーマ「レオのうた」を発売するなど多彩なジャンルで活躍。

1966年1月 ニューヨークでレコーディングされたアルバム「ニューヨークのミコ」リリース。

1968年 アメリカ~ヨーロッパから帰国後に行われたライブを録音した「ミコR&Bを歌う」を発売。日本の音楽界でいち早くR&Bに取り組む。

1969年7月 イメージチェンジを計って「人形の家」を発売、ミリオンセラーを記録し、「日本レコード大賞」歌唱賞受賞。

自身の経験を綴ったダイエット本、「ミコのカロリーブック」が150万部の大ベストセラーとなり、ダイエットブームの先駆者となる。

大阪万博の歌「世界の国からこんにちは」を三波春夫、吉永小百合、坂本九などと競作。

「私が死んだら」「燃える手」「ロダンの肖像」「できごと」ほか歌謡曲のヒットを続発したが、渡米帰国後はジャズやポップス方面に傾倒、「JAZZ TIME」「My Funny Valentine」「IN MY FEELING」などのジャズ・ヴォーカルアルバムを発売、高い評価を受ける。

アメリカ屈指のジャズ・シンガー、エラ・フィッツジェラルドに気に入られ「私の養女にしたい」と言われたというエピソードは有名。また日本歌謡界の女王、美空ひばりからは自身が作詞した「夢みる乙女」をプレゼントされレコード発売している。

また直木賞作家、高橋克彦氏や桑田佳祐氏らが弘田のファンで、桑田氏は1983年に発売されたサザンオールスターズのアルバム『綺麗』に、弘田をテーマにした「MICO」という作品を収録している。ほかにも大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、スピッツの草野正宗らミュージシャンからもリスペクトされ、1999年にはピチカート・ファイヴ 小西康陽プロデュースによる弘田のアルバム「TOKYO 27:00」(TRIAD/COLUMBIA)を発売。

2001年 デビュー40周年に発売された「弘田三枝子・これくしょん~マイ・メモリィ」の6枚組CD-BOXがヒット商品となる。

45周年にはCD「恋のクンビア21」、50周年には自身が選曲したジャズ・アルバム「弘田三枝子・せれくしょん~ジャズ・ヒッツ」を発売した。

2015年10月 デビュー55周年記念曲「ひいふうみいよう/悲しい恋をしてきたの」を発売。これが最後のシングルとなった。

アルバムは昨年2019年2月にリリースされた、新曲「ひいふうみいよう」を収録した「弘田三枝子 ゴールデン☆ベスト」が最後の作品となった。

2020年はデビュー60周年を迎えるに当たり、記念曲や記念コンサートなどが企画されていたが、今回のコロナウィルス感染拡大で延期されていた。

最後の肉声は、亡くなる約ひと月前にYouTube番組「日本歌手協会チャンネル」で配信された「コロナに負けるな リレー歌謡祭第46弾」。

電話で「早く皆さんに会いたいです」とコメントを寄せ、2015年の「日本歌手協会歌謡祭」で歌った「人形の家」の映像が流れていた。

2020年7月21日、心不全のため急逝。享年73。