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加藤和也 美空ひばり

美空ひばりの33回忌に東京タワーが“ひばりバイオレット”に点灯。ファンの力で、コロナ禍で苦しむ人々へ癒やしを

国民的歌手として、今も愛される美空ひばりが旅立ったのは1989年(平成元年)。あれから丸32年が経ち、33回忌という節目を迎えた。

命日となった6月24日、美空ひばりの栄誉を讃え、東京タワーと横浜マリンタワーが美空が愛した紫 “ひばりバイオレット”にライトアップされた。東京タワーは昭和33年に完成し、高さは333メートル。その翌年の昭和34年には美空が楽曲「東京タワー」を発表している。昭和を象徴する東京タワーと美空ひばりとの特別なコラボレーションだった。一方、横浜は美空が生まれ育った場所。1937年(昭和12年)、横浜磯子で生まれ、父母が営む魚屋に店先で、3歳の時には百人一首に節をつけてそらんじて見せる看板娘だった。

ライトアップは同日19時20分から行われた。東京タワーが一望できるザ・プリンスパークタワー東京の33階にあるバンケットルームで行われた点灯式では、徳光和夫が司会を務め、美空の子息であり、ひばりプロダクション代表の加藤和也氏がその瞬間を感無量で眺めていた。

「東京タワーの後ろの雲も綺麗に栄えて、紫がとても綺麗です。皆様のおかげです。感謝申し上げます」

加藤和也 徳光和夫

美空ひばり33回忌記念 東京タワーライトアップ点灯式の司会を務めた徳光和夫(左)と、ひばりプロダクションの加藤和也代表

加藤氏はこの日、朝から母・美空が眠る日野公園墓地にお参りし、美空と親しかった中村メイコ、石井ふく子、岸本加世子と噂供養をして過ごしたという。

また例年は全国からたくさんのファンが美空の墓前に集まるが、今年は感染防止に配慮。日野公園墓地前から美空の菩提寺である唱導寺の海應上人(かいおうしょうにん)による法要がオンラインで行われた。東京タワーと横浜マリンタワーのライトアップは、オンライン法要の参加者からのすべて収益と、美空の熱烈なファンだというインドネシアの実業家、ダトゥ・ロー・タク・ウォン氏(バイヤングループCEO)の妻であるダティン・晴代・ロー氏(マダムロー)による協賛で実現したことも明かされた。点灯式にはマダムローも出席していた。

挨拶に立った加藤氏は、「今日で丸々32年が経ちました。ここまで母の名前を残してくださったのは、普段から母を応援してくださるファンの皆様の変わらないお心だと思って感謝するところであります」と語った。

「少しだけ思い出話をさせていただくと、東京タワーはたくさんの思い出を作ってくれた大事な場所です。(今は閉館した)水族館や蝋人形館など、20回は連れて行ってもらいました。我々親子にとって大切な思い出が詰まっています。そして、母が生まれ育てていただいた街の横浜マリンタワー。この2つのタワーが紫にライトアップされました」

「ご存じのように、母は12歳から本格的な、プロとしての歌手活動をしてきましたが、自分の好きな歌を歌わせていただき、それをファンの方が聴いてくださった。戦後復興の時代に同じ苦労を共有して、本人が好きで歌っていた歌を聴いてくださるファンの方に、逆に力をいただきました。歌手冥利につきる話だと思いますが、そのファンの方が(美空の死後も)33年、変わらず応援してくださったおかげで今日の日が迎えることができました。本人も空から感謝していると思います」

「また今回の紫色の点灯ですが、全世界のあらゆる業種の方が流行病で大変な思いをされています。また、この病気と最前線で戦っているのは医療従事者の方です。紫のライトで癒やしを感じていただけたらと思います。残念ながら母はこの世におりませんが、母がいちばん喜ぶことなんじゃないかと思って、せっかくいただいた素晴らしい機会をこのようにさせていただきました」

点灯の瞬間は10秒前からカウントダウンされた。10・9・8・7・6・5・4・3・2・1・点灯!! 昭和の象徴である東京タワーと美空ひばり。美空の33回忌にふさわしいライトアップとなった。

 

美空ひばり点灯式

美空ひばりが愛した紫色に点灯した東京タワーと、点灯式が行われたザ・プリンスパークタワー東京

美空ひばりと昭和、そして希望

美空ひばりは1937年(昭和12年)横浜磯子で生まれ、幼少期は父母の営む魚屋の店先で3歳には百人一首に節をつけて全て諳んじて見せる看板娘だった。戦中は押入れの中で蓄音機から流れる歌に熱中し、戦地に赴く出征兵士の壮行会に呼ばれて歌っては涙する人々の姿に、歌を一生の仕事にしたいと思った原体験が歌手の道へのスタートとなった。

そして終戦から1カ月、8歳になったひばりは、歌好きの父が近所から集めた若者で結成した「ミソラ楽団」をバックに歌い始める。ストリートミュージシャンとなったひばりの歌は横浜の人々の間で人気を集め次第に大きなステージにも立ち始める。

そんな人気に白羽の矢が立ち、ひばり12歳で主演した、横浜が舞台の松竹映画「悲しき口笛」が大ヒットし、同タイトル主題歌も45万枚の大ヒットとなった。これがハワイやアメリカ西海岸でも話題となり、終戦から5年、まだ日本人の海外渡航が全面禁止されていた時代に、心待ちにしている日系人社会のバックアップを受け30回を越えるライブツアーが敢行された。

ひばりの歌い演じる役どころの戦災孤児や不幸な境遇にも明るくひた向きに生きる子供の姿は、荒廃した日本と祖国を憂う日系人社会の希望になった。

こうして、大衆に寄り添った美空ひばりの芸能人生は横浜から幕を開け、戦後復興の一つの象徴となった。

1958年(昭和33年)に高さ333メートルの東京タワーが完成すると、翌年から電波送信が始まり家庭にテレビ番組が届くようになった。この年にひばりは「東京タワー」(作詞/野村敏夫 作曲/船村徹)も発表している。

高度経済成長と呼応するようにお茶の間で世相を映すひばりの歌や役どころは人気を博し続けた。

終戦から19年、アジアで初めて開催された1964年(昭和39年)東京オリンピックでは柔道が4階級中3階級で金メダルを獲得し、国民に夢と希望を与えた。

ひばりもまた同年「柔」(作詞/関沢新一 作曲/古賀政男)で「勝つと思うな 思えば負けよ」と歌い、当時180万枚のセールスを記録した。

生涯、1年の半分以上をステージに立ち続けたひばりの人生は、まさに芸一筋の道だった。

終戦と共に大衆に寄り添い歌い続けた美空ひばりは、1989年(平成元年)6月24日、昭和の終わりと共に永眠。その日から33回忌法要の節目の年を迎えた。このことを記念し、生誕地の横浜マリンタワーと東京タワーが、同時刻19時20分に美空ひばりの愛した紫色にライトアップされた。

 

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