
橋幸夫らスターが見守る中、夢グループ社長が最初で最後のトークショー。「これからも前を向いて歩きたい」
歌謡界で活躍するスターをそろえた夢コンサートや、通販事業などを手がける夢グループの石田重廣社長が12月7日、東京・文京区の文京シビックホールでトークショー「最初で最後の“感謝”のトークショー『わたしの過去・現在・未来』」を行った。
このトークショーは年商200億円達成や、顧客世帯数1000万件突破に感謝して行われたもので、あいざき進也、晃(フィンガー5)、あべ静江、おりも政夫、北原ミレイ、黒沢年雄、小林幸子、平浩二、高道(狩人)、新沼謙治、橋幸夫、尾藤イサオ、三善英史ら(五十音順)夢コンサートで活躍する歌手が大勢駆けつけ見守る中、石田氏は2時間以上にわたって自身の生い立ちや、現在のこと、そして未来への思いを語った。
福島県出身の石田氏は、甲子園を目指して東北高等学校の野球部に入るが、学校の不祥事により対外試合が禁止されたことで退学を決意。野球部とは関係ない不祥事により甲子園出場が叶わなくなったことが理不尽だったという。しかし、そこからの人生が波瀾。大学受験を目指すが、6校中4校で、受験日を間違えるなどして全敗。予備校に通って再度、受験を目指すものの、親から送ってもらった8校分の受験料16万円を友人に盗まれたり、学生ローンで借りた30万円のお金を“自分で稼いだお金”だと気分的に勘違いしてしまったり、アルバイトや正社員として職についてもクビ、クビ、クビの連続。「人生もここまでか」と思うほどの失敗の連続だったという。
クビになった理由も、今聞けば「クビになるのも当然かも」と思うが、素朴で自身の頭で考える当時19歳の石田少年にとっては何をやってもうまくいかない状況だった。
そんな石田氏が地元の広告事業と出合い、結果的に起業することになり、現在に至る人生を振り返った。
意図せず芸能事務所を立ち上げることになった話では、所属第1号の歌手が狩人であったこと。会社名を彼らのヒット曲の曲名と同じ「あずさ2号」にしたところ、狩人から領収書の宛先に「あずさ2号」ともらうのは恥ずかしいと懇願され、社名変更を決めたこと。三善英史と出合い、所属歌手が増えたことで会社名を夢グループに変更したことなどを明かした。
石田氏は「これまでの僕は運がよかっただけ」と話し、コロナ禍でコンサート事業が停滞したことも前向きにとらえ、来年の夢コンサートでは、地方の農産物や名産品をセットにしたチケットの販売方針などを披露した。コロナ禍で傷ついたのはエンタメ業界だけではない。頑張っている地方の方を応援したいという石田氏。「これからも前を向いて歩いていきたい」と話した。
「来年はどうなるかですが、すべてがいい1年になることはないと思っています。でも、苦しいあとには必ず明るい未来が来ますから。歌手の皆さんにもよくお話させていただきますが、いかなる時でも僕たちは前を向いていかないといけないと。お客さんがいる限り、人に喜んでもらえることをみんなで考えようと。その意味では、今年はいい勉強になったと思います」

トークショーの最後にはアンコールがかかり、歌手のZEROが登壇。社長であり、自身のマネージャーでもある石田氏に「社長はどうしてCD(シーディー)のことを、シーデーと言うんですか?」と質問。社長は福島県出身で地元の訛りがあるので、「シーデーとしか言えないんだよ」と話していた。