大川栄策を突き動かすもの~自身初の作詞・作曲作品への挑戦~

「お客様との出逢い、歌との出合いは“一期一会”」

 

――歌手生活50年を超えても、まだチャレンジし、燃えつきたいという強い思いを持っておられることに敬服します。一方で、歌手になった頃の大川さんはどんな思いだったでしょうか? 先生方からいただいた、印象的な言葉などはありますか?

大川 20代の頃、師匠である古賀(政男)先生は、「何も考えるな。俺が書いたメロディーどおりに歌えば歌になるんだ」と、そうおっしゃっていました。20代の男にとっては、それが一番楽は楽ですよね。そのとおり歌えば形になるわけだから。もうすばらしい作品だということを証明済みの作品ばっかり歌っていましたから、ものを作る楽しみとか苦労は知らなかったわけです。

――若い時には、変に自分で考えるよりは、まず言われたことをきちっとやるっていうのは大切な教えですよね。

大川 そうなんです、そうなんです。何も迷ったり、「これどうだろうか」とか考えることはないんですよ。もう思いきり自分の声で歌えばいいわけですよね。

――今でもその時の教えといいますか、チャレンジ……チャレンジという言葉が適切なのか……。

大川 チャレンジですよ、うん。細かく言えば、今まで使ってなかった声や、初めて口にする言葉、自分の中では初めて出合うストーリーというかね。そういったものに対して、どういうふうに自分の中で捉えるか。その連続ですよね。古賀先生がおっしゃったのは、「どんな歌を歌う時にも、同じ歌を歌う時にも、今この歌に出合ったんだという気持ちを忘れるな」ということでした。それはいつも言われていましたね。どんな場でもね。レコーディングでもステージでも。それはとても大事なことで、要は歌に慣れちゃいけないってことです。一期一会。お客様に対しても、同じ詞、同じ曲、同じ場所であっても全然違うんだと。それを受け止める感性というか、それを養わなきゃダメだよってことだったと思います。

――古賀先生から「何も考えるな」と言われた時代を経て、少しずつキャリアを積んでいく中で、1978年に古賀先生がお亡くなりになります。世界がぐっと変わってしまったわけですよね。自分自身でいろいろと考えなきゃいけないって思うようになったのは、「さざんかの宿」(1982年)の大ヒットがひとつのきっかけですか?

大川 そうですね。「さざんかの宿」(作詞/吉岡 治 作曲/市川昭介)は先に詞をいただきました。吉岡先生の詞を読んで、「すばらしい! こんな詞は見たことない」って感動したんですよ。そのあと、市川先生による曲ができてきて、「え、これ、俺には無理、俺には無理」って(笑)。曲の世界のスケール感に圧倒されちゃったんです。「俺にはこの世界を歌いこなせない」と。でも、市川先生が「あなた、ここで人生、男になるか。チャレンジですよ。乗り越えなさい」と言ってくださった。デビューして13年目、当時33歳でしたが、飯も十分に食べられましたし、安穏とした生活を送っていたわけです。そんな時に出合ったのが、「さざんかの宿」でした。それ以降ですね、作品づくりに関しては、自分で手がけて、自分の意見も入れて、ディレクターと相談してやってきました。

――大川さんが考えるプロの歌手とはどんな職業ですか?

大川 やっぱり歌手とは、悲しみとか辛さとか切なさとか、それをいかに共有させられるかにつきます。すごく不遜な言い方かもしれないけれど、皆さんの心のうちにどう定着させられるかという、皆さんの心の中に言葉、声、表現を留められるかっていうことなんです。いかに印象に残るかっていうことですよね。それがプロとしての仕事だと思うんだけど、それをいつも心がけたいと思いますよね。

――ゴールのない戦いですよね。

大川 もちろんですよ。ゴールなんか絶対ない。「これで俺の歌はいい」なんてことは昔から一度も思ったことないですね。先ほど申し上げたように、先生がおっしゃったことに対して、贅沢な悩みかもしれないけど、既成の作品でもって生計を立ててたわけじゃない?

――デビュー曲「目ン無い千鳥」にしてもカバー曲で、すばらしい歌だとわかっている歌を、先生の教えに忠実に歌ってヒットさせた、注目されたという意味ですか?

大川 そうです。当時の若者(大川)にしてみれば、身に余るお金をいただいていたわけですよね。それを脱却していかないことには、新しい自分の世界を築かないことには、いくら世間に僕のレコードが売れたって、自分の評価じゃない。買う人にとっては、郷愁なんです。昔親しんだ歌を今聴いてみたいと。新しい歌い手の声で、と。それだけです。ですから、それを乗り越えないと、プロとしての立ち位置はないんだということは、昔から思っていましたよね。

――プロ意識といいますか、そう思われたのはデビュー直後からですか?

大川 若い頃は全然ないですよ。だってプロになったこと自体が喜びだもん、最初は。そして右も左もわからないから、プロデューサーやプロダクションがあっち行けって言ったらあっち行ってるだけだから。そんなこと全然思ってませんよ。「さざんかの宿」以降ですよね。20代に歌っていたのはほとんどカバー曲ばっかりです。でも、「さざんかの宿」以降、カバーはやらないと決めました。テレビなど番組の企画ではカバー曲を歌いますが、自分なりの世界、自分が築き上げたものを作り上げていかなくちゃいけないと、当時思いまして、それは今も思っています。

 


2020年8月26日発売
自身初の作詞・作曲作品
大川栄策「面影しぐれ」

「面影しぐれ」 
作詞・作曲/筑紫竜平 編曲/蔦 将包  
c/w「恋の川」 
作詞・作曲/筑紫竜平 編曲/蔦 将包  
日本コロムビア COCA-17797 ¥1,227+税

大川栄策104作目のシングルとなる「面影しぐれ」は、ペンネームの“筑紫竜平”名義で作曲だけでなく、初めて作詞にも挑戦した作品。愛する女性への思いを断ち切るために旅に出たが、どうしても忘れられず、彼女の面影が時雨のように何度も心を過ぎってしまう……という男性の未練心を、メジャー調のメロディーに乗せて歌い上げる。カップリングの「恋の川」も自身の作詞作曲作品の女唄。


Profile
大川栄策(おおかわ・えいさく)
1948年10月30日、福岡県生まれ。高校卒業と同時に歌手を目指して上京し、作曲家・古賀政男氏に弟子入り。修行を経て、1969年に「目ン無い千鳥」で念願の歌手デビューを果たす。1982年、33枚目のシングル「さざんかの宿」が大ヒット。同曲は現在でもカラオケで最も歌われる名曲のひとつとして常にランクイン。以降、数々のヒット曲を世に送り出している。名前は師匠の古賀政男により名づけられた芸名であり、出身地の福岡県大川市の「大川」を「栄」させる対「策」に由来。作詞作曲を手がける際のペンネーム「筑紫竜平」は、九州の筑紫平野と、師匠の古賀が辰年だったことから名付けたという。大川栄策歌謡塾を主宰。音楽の発展にも力を注いでいる。