北川裕二が自然体で歌う“大阪”の物語

北川裕二物語
~歌は宝~

 

北川は幼少の頃、祖父の影響でラジオから流れてくる浪曲が好きになった。「ああ、渋い声ですごいな」。

雪の多い地元では、冬になると必然と屋内での生活が多くなる。親戚が集まると、三味線や太鼓を演奏して歌うのが恒例で、そんな中で育った北川は自然と歌が好きになる。中学2年生の時にはバンドを組んで、3年生を送る会でドラムを披露した。

「ドラムは姉に買ってもらったんですが、やる気になればできるもんですね」

高校に入ると、GS(グループサウンズ)にハマり、寺内タケシとブルージーンズをコピーして楽しんだ。

「高校を卒業して、バンドがバラバラになったあとは、ギター2台の弾き語りで、敬老会で演奏したり、ライブハウスに出演したりしました。アリスの曲なんかを歌っていました」

「歌っていいな」。北川は歌うことに傾倒していった。人生の転機は、日本テレビ系列のオーディション番組「スター誕生!」への挑戦だった。エントリー番号は111番。600人が集められた予選会で、一次、二次と勝ち残り、テレビへの出演が可能な8人の枠に残った。一次では、「氷雨」を歌ったが、二次では審査員側の希望で「与作」を歌った。

「結果的に『与作』が良かったみたいです。6人まで名前が読み上げられましたが、“111番”はないわけです。ああ、やっぱりだめかな、と思った時、『111番の増子裕幸(本名)』と呼ばれた」

番組では予選を7週勝ち抜き、6代目グランドチャンピオンに輝いたが、レコード会社やプロダクションからは声がかからなかった。じつはあるレコード会社から声がかかっていたのだが、北川が歌手になることに反対していた家族は、レコード会社からの手紙を北川に見せなかったのだ。

北川は「スター誕生!」への挑戦はいい思い出になったと納得するしかないと思った。しかし、沸々と歌手になりたいという思いが募り、縁を頼って作曲家・弦 哲也氏の元を訪ねる。

「わかった。じゃあ、やるか」

その一言で、北川の運命は大きく動く。弦氏の2番目の弟子となった北川は1984年、“増子ひろゆき”として「雨の停車場」でデビューすることになる。今聴いても、とてもいい曲だ。

「素晴らしい作家の先生方が気合いを入れてつくってくださいました。僕への応援歌です。弦先生によく言われるんです。『お前にはいい作品を書いているのに、なんで売れねえんだ』って(笑)」

師匠である弦氏からは、まず人間関係をきちんとすることを教えられた。そして音楽的には、譜割を崩して歌わないこと、声はとにかく前に出すこと、作品を自分勝手に解釈しないことなどを教えられた。その教えを守ってきたことで、今の北川がある。

「今ではもう、祖父母も両親も亡くなりましたが、(長男である僕が家業である農家を継がずに)歌手になってしまったという申し訳なさがずっとありますね。だから、僕はこの世界を全うしたい、頂点を見極めたいと思っています」

「声が出るかぎり、身体が動くかぎり歌う。それが、僕を支えてくださっているすべての方への恩返しになる」とも語る北川。そんな彼にとって、“歌”とは何だろうか。

「生活のひとつです。身体の一部でもあるし、歌なくして生活はないなと。きれいごとかもしれないですけど、それは思いますね。歌って生き物だなと思うんです。その時の体調や雰囲気によって、歌い方も変わっちゃいますしね。だからこそ、歌は僕にとって外せない一生の宝なんです。できるかぎり歌っていきたいと思っています。ファンの方々は歌を通じて得られた財産です。その広がりというのは、やっぱり幸せのひとつです。歌に感謝しています」

いつか自らの生い立ちを物語にして、芝居と歌が組み合わさった舞台を、小さな会場でいいのでやってみたいと、北川は思っている。

 

こんなこともありました!
“ハンカチは常に携帯すべし”

北海道札幌市に、かつて「ミカド」というグランドキャバレーがあったんですが、そこのステージに立った時の話です。一生懸命、汗かいてステージを務めたあと、いったん舞台袖へはけました。ショーのフィナーレではダンサーが出てきて踊るんですが、ダンサーが僕を呼ぶんですよ。こちらは汗かいて暑くて。ハンカチがなかったので、鏡台にあったトイレットペーパーで急いで汗を拭いてステージへ戻りました。そうしたらお客さんにすごくウケている。ワ―って!! ショーが終わって「なんで、こんなにウケちゃったのかなあ?」って思いながら鏡を見たら、顔いっぱいにティッシュペーパーがくっついちゃってて。あの時は恥ずかしかったですねえ。ハンカチは常に携帯すべし。教訓です(笑)。

 


2020年9月9日発売
大阪が好きやねん
北川裕二「大阪なさけ川」

北川裕二「大阪なさけ川」

「大阪なさけ川」
作詞/かず 翼 作曲/弦 哲也 編曲/南郷 達也
c/w「大阪メランコリー」
作詞/かず 翼 作曲/弦 哲也 編曲/南郷 達也
キングレコード KICM-30988 ¥1,273+税

大阪を舞台にしたシングル。「女のみれん」で大衆演歌を確立し、それまで縁遠かった関西以西の支持者が急増。とくに大阪での知名度が上がった。今作では、歌詞にも大阪の言葉が使われ、大阪との密着度を増した。「大阪なさけ川」は“好きゃねんあんたが ホンマに好きや”と、不安もあるが、どんなことがあっても惚れた男についていくという女性の気持ちを歌う。「大阪メランコリー」は男性との別れを予感しながらも、男性への思いを募らせる女性目線の歌。

 

 


北川裕二profile
北川裕二(きたがわ・ゆうじ)
1953年、福島県生まれ。本名は増子裕幸。農家を営む長男として生まれる。オーディション番組「スター誕生!」で第6代グランドチャンピオンに輝くが、レコード会社等からスカウトはなかった。じつはスカウトの連絡があったが、北川が歌手になることに反対だった家族はその通知を隠した。
歌手になって20年ほど経った時に、その事実を父親から明かされ、「これはひどいと頭に来たが、今はよかったと思う。これがなければ、弦先生の弟子になることもなかった」(北川)。作曲家・弦哲也氏に師事し、“増子ひろゆき”の芸名で1984年、「雨の停車場」でデビュー。1986年、2作目の「演歌川」をリリースするにあたり、現在の“北川裕二”に改名。
「演歌を歌う男だというイメージを名前からも強く出したかったんです。最初は“北川二郎”という名前に。東北出身なので、北の川で、北川。先生の2番弟子だったので二郎。でも、画数が悪かった。それで先生が『本名の裕をもらったらどうだ』と言ってくださり、北川裕二になりました」(北川)。
デビュー30周年記念曲「女のみれん」をきっかけに、大衆演歌路線にも開花。2020年、大阪を舞台にした両A面シングル「大阪なさけ川/大阪メランコリー」をリリース。趣味は旅、スポーツ(特に野球とゴルフ)。

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