【連載】永遠の歌「みちのくひとり旅」

永遠の歌~Song and Story~
「みちのくひとり旅」山本譲二

18歳で夜汽車に飛び乗り上京し、歌手を夢見て下積み生活を送った山本譲二。23歳で浜 圭介氏と出会い、デビューのチャンスをつかむが、それですべてが好転したわけではなかった。北島三郎の門を叩き、再び下積み生活へ。28歳での再デビュー。月日は流れ気がつけば30歳に。文字通り“背水の陣”で臨んだ「みちのくひとり旅」は、10カ月間の地道なプロモーションの末、ミリオンセラーの大ヒットとして実を結んだ。

 

「山本、いい曲があると聞いたから行ってこい」。師匠・北島三郎に促されて馬渕玄三氏のもとを訪ねた山本譲二は、そこで運命の一曲と出会った。馬渕氏が作曲家・三島大輔氏を引き合わせ、「みちのくひとり旅」を聴かせたのだ。山本は、その場で土下座し「この曲を僕にください!」と懇願した。必死だったと当時を振り返る。

馬渕玄三氏とは、島倉千代子や小林 旭を手がけヒット曲を連発し、美空ひばりの担当を務め、のちに北島三郎も育てた日本歌謡界における伝説的なディレクターである。

24歳で浜 圭介氏のもと歌手デビューを果たすも、成功には至らず、北島三郎の付き人兼前唄担当として修業し、再デビューするものの不遇をかこっていた山本譲二が、30歳を迎えて「次がダメなら、もう歌手は諦めろ」と引導を渡されたタイミングでのことだった。

かくして「みちのくひとり旅」は、1980年8月5日にリリースされた。しかし、すぐさまヒットにつながったわけではない。山本譲二は「次がダメなら……」の重いプレッシャーを背負いながら、歌わせてもらえる場所があれば、どこへでも出かけて行った。全国各地の盛り場を回り、スナックやクラブを歩いて訪ねてまわった。

「お店のマスターやママさん、従業員の女の子やスタッフの男の子たち、皆さんが『いい歌ですね。明日から有線にリクエスト入れますね』って声をかけてくださった」

地道なプロモーションを続けた結果、その年の暮れ頃から関西圏での有線放送でリクエスト数が増え、その噂が徐々に広がり始めた。

発売から10カ月あまりを経た1981年6月29日、山本譲二は人生の大転換を迎えた。その日、フジテレビ系列放送の「夜のヒットスタジオ」でテレビ初披露すると、「みちのくひとり旅」は瞬く間にヒットチャートを駆け上がり、8月31日付けのオリコンチャートで8位に。その後22週連続でトップ10入りする、ミリオンナンバーとなった。

「『夜ヒット』の翌日、福岡のレコード店でのキャンペーンがあったんですけれど、お店の前にものすごい数のお客さんが集まっていて。僕がタクシーから降りたら『キャーッ‼』って。『エッ? エッ? 僕ですか?』となって。揉みくちゃにされながら控室に入って、で、店前にミカン箱のステージを置いて歌いました。あれが僕にとって最後のミカン箱ステージでしたね」

当時の「夜ヒット」と双璧をなす人気歌番組・TBS系列の「ザ・ベストテン」でも「みちのくひとり旅」は最高位3位、通算24週のベスト10ランクインを記録している。そして1981年の年末、「みちのくひとり旅」は、『第23回日本レコード大賞』のロングセラー賞を受賞。山本譲二は、『第32回NHK 紅白歌合戦』初出場を果たした。

山本は「みちのくひとり旅」という作品を「男として、歌い手として、山本譲二を生かしてくれた楽曲です。今の家庭を持たせてくれた、親孝行をさせてもらった、そのすべてに結びついている、僕の宝物です」と言い、一生大切に歌っていくと心に刻んでいる。

 


2020年4月15日発売
硬派な山本節が久々に復活
山本譲二「夜明け前」

「夜明け前」
作詞/ちあき哲也 作曲/浜 圭介 編曲/伊戸のりお
c/w「ザンゲの酒がしょっぱくて」
作詞/数丘夕彦 作曲/浜 圭介 編曲/伊戸のりお
テイチクエンタテインメント TECA-20025 ¥1,227+税

デビュー45周年記念シングル 第2弾。山本譲二を歌手の道へ導いた恩人・浜 圭介が作曲。ヒットメーカーである生前のちあき哲也が山本に託した詞をジャンルにとらわれない円熟の歌唱で表現した記念作。

 


Profile
山本譲二(やまもと・じょうじ)
1950年2月1日、山口県下関市生まれ。1974年、伊達春樹の名でデビューするもヒットには恵まれなかった。北島三郎の付き人兼前唄担当となり、1978年に山本譲二の本名で再デビュー。1980年、「みちのくひとり旅」をリリース。翌81年『第23回日本レコード大賞』ロングセラー賞を受賞。『第32回NHK 紅白歌合戦』に出場、一気にスターダムを駆け上がった。

関連記事一覧